2012年5月2日水曜日

長江文明誕生以降の政治経済史メモ(随時更新) - ネクスト・ルネサンスを見据えた投資日記


・紀元前14000年前頃〜 【中国】長江文明は黄河文明が萌芽する遥か前より栄えていた。

・紀元前13000年前頃〜 【中国】長江文明で稲作が始まる。

・紀元前9000年頃 【イラク周辺】シュメール文明の始まり。シュメール人が移住して来て、農耕が始まった。

・紀元前8000年頃 - この頃、第4氷河期(最終氷期)が終わったとされる。※この頃シナイ半島は砂漠ではなかったかもしれない

・紀元前8000年頃 -農耕革命(農耕の開始)人類史上、重大な事件の1つとされる。この時期より主に磨製石器が使われたことから新石器革命(新石器時代)とも。

・同年頃 【シリア】ダマスカスは紀元前8000年から10000年もの昔から人が定住していた(人間が連続的に定住した世界最古の都市)。ダマスカスは、メソポタミアとエジプト、アラビア半島とアナトリアの東西南北を結ぶキャラバン貿易の拠点となり、周辺のオアシスでつくられた農作物の集散地として栄え続けた。

・同年頃 【エジプト】農耕が始まる。

・同年頃 【インド】北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される。インド・アーリア人となる。

・紀元前7000年頃〜 【イラク周辺】メソポタミア地方で、麦作と牧畜が始まる(イラクのジャルモ遺跡が有名)。

【中国】長江文明は黄河文明が萌芽する遥か前より栄えていた。稲作実施。

・紀元前4000年頃 【南東ヨーロッパ】ヴィンチャ文字(原文字)が単純な象徴として利用されていた(文字でないと主張する説もあり)。

・同年頃 【ガッガル・ハークラー川周辺(インドパキスタン周辺)】インダス文字が発明

※堀晄『古代インド文明の謎』インダス文字からラテン語やギリシア語が派生した

・紀元4500年頃 ★【イラク周辺】シュメール文明が世界最初の楔形文字を発明(メソポタミア文明の始まり)

発見された数学用具には、十進目盛が刻まれ、細かく精細な目盛りのついた正確な定規や、地平座標における角度を40度あるいは360度法で測るために用いられた貝のコンパス、天球を8ないし12分して計測するための貝製の計測器、航法のために星の位置を計測する計測器などがある。

古学的な証拠によれば、この文明は、8を基数とする記数法を使っており、円周率(π)の値を知っていたとの説がある

・紀元前4000年頃 【イラク周辺】世界初の帆走船が使われていた形跡がある。

・日本では紀元前4000年頃(縄文時代前期)の外洋での航海が可能な大型の丸木舟の出土例がある。

・紀元前3100年頃 【イラク周辺】南部でシュメール人の都市国家が発達。

・紀元前3000年頃 【イラク周辺】シュメール人は、複合的な測定システムを開発した

・紀元前3000年頃 【イラク周辺】世界最古の神話(『二つの川の間』という意味のメソポタミア(現在のシリアやイラクの地方)の神話)。楔形文字で粘土板に書かれた。その中には一部、旧約聖書の創世記モデルとなるような部分も存在する。(ウトナピシュティムの洪水物語がノアとノアの箱舟の大洪水物語の原型となったとする説もある)この神話で有名な部分は天地創造や半神の英雄ギルガメシュの冒険などが挙げられる。

・紀元前3000年頃 【イラク周辺】アッカドはアッカド地方(シュメールの北側)に定着し、シュメール文明を吸収して文明化した

・紀元前3000年頃 【パレスチナ】アジアとアフリカをつなぐルートの中心に位置するパレスチナには、紀元前3000年頃からカナン人が住んでおり、エジプト、メソポタミア、シリアの影響を受けて独自の宗教を成長させた。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は、彼らの信仰の影響を受けている。紀元後六年、パレスチナはローマの属州となる。

・紀元前3000年頃 ヒトコブラクダが、家畜化された。

・紀元前3000年頃 【東南アジア】モンゴロイドがアウトリガー付きカヌーで帆走を始めて、東南アジアの島々に広がり始めた

・紀元前3000年頃  【イラク周辺】

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(1)原始仏教が、西アジアとりわけメソポタミアで起こった。

(2)密教も同じくメソピタミア起源であるが、原始仏教・密教はゼルヴァニズム、タターガティズムである。

(3)この原始仏教・密教が東西に伝播し、普及した。

(4)前6世紀末のペルシャのダリウス王の西アジア支配と、ゾロアスター教の国教化と仏教徒迫害によって東漸した仏教の一部はインドに定着し、今日信じられているインド仏教史ができあがった。

(5)インド仏教に関係がある重要な地名は西アジアに追跡できる。インドの地名は西アジアの反復である。民族の移動とともに地名も移動した。

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・紀元前3000〜2600年頃 【インド・パキスタン周辺】北インドおよびパキスタンに位置したインダス文明(ハラッパー文化)にある。ハラッパー文化は十進法を使った重量・距離の計量法を発達させ、驚くほど精密で数学的な比率の寸法をもったレンガを作っていた。

※パピルスでつくつた帆船、ナイル川の氾濫の後で畑を復元するための測量術(幾何学のもと)などが生み出された。

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※『古代インド文明の謎』堀晄説

インダス文明を担っていたのは遊牧民族アーリア人だった。建築・都市計画・度量衡・聖牛崇拝・牧農文化など多くの面における「連続性」がある(アーリア人の「インド侵入」は、通説よりずっと早く起こっていた)。アーリア人の大移動は、セム族(アフロ=アジア族)がアフリカからアジアへ侵入したことによって「玉突き的」に引き起こされ、北シリア地方からインド・ヨーロッパに広がった。通説のいう南部ロシア〜カフカス地方だったのではない。

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・★紀元前2900年 【エジプト】セソストリス王が、メソポタミアまでを、遠征していた。それが、シュメール人(バグダッド=バビロン周元)を征服して、セム人の王権を打ち立てた(人類最古の世界帝国)

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※鳥生守氏によるヘロドトスの『歴史』解釈

エジプト王(ファラオ)=によるアジア・ヨーロッパへの大遠征ついての記述

ヘロドトス(前485−425年頃)は『歴史』において、エジプト王による大遠征を書いている。エジプト王(ファラオ)のセソストリスは、有史以来、初めて艦隊を率いて紅海からアラビア海、ペルシア湾までの沿岸住民を征服したという。

  彼はさらにその遠征からエジプトに帰還後、大軍を率いて大陸を北上し、その進路の民族をことごとく征服し、アジアばかりではなく、トラキア(エーゲ海北岸、黒海西南岸)、スキュティア(黒海西北岸)などのヨーロッパにまで達したという。また、エチオピアをも征服したという。

※副島隆彦説

セソストリス王の記述は、ヘロドトスの「歴史」中で、わずか、2ページだということ。このことが少し気になります。

それから、「船で紅海(こうかい)を渡った」とか、書いてあります。私は、当時の、紀元前3000ぐらいは、エジプトからメソポタミアまで、ずっと、森林(レバノン杉のような大木が生い茂る)もあったような沃野(よくや)が続いています。草原や農耕地にも部分的 (川のほとりとか)にははなっていて、そこをたどって、セソストリス王のエジプト人の軍団がメソポタミアまで、攻めて行って、征服したのだと、考えています。

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・紀元前3000~2000年 【中国】黄河中流の渓谷に都市文明誕生。

・紀元前2500年頃以降 【イラク周辺】シュメール人は粘土板に乗算表を書き、幾何学の学習と除算問題に利用した。

・紀元前2334年頃 - 2154年頃 【イラク】サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王国を成立。

・紀元前2300年 - 1800年 【インド・パキスタン周辺】ヒンドゥー教があった??インダス文明のハラッパーから出土した印章には、現代のシヴァ神崇拝につながる結跏趺坐した行者の絵や、シヴァ神に豊穣を願うリンガ崇拝につながる直立した男性性器を示す絵が見られる。

・〜紀元前2000年頃 【イラク周辺】太陽太陰暦を採用。

・紀元前2000年頃 【メキシコ】マヤ地域でマヤ文字(一種の象形文字)が利用された。

・紀元前1900年頃 【イラク周辺】セム人系のアムル人が巨大都市バビロンを都として古バビロニア王国(バビロン第1王朝)を始めた。

・紀元前1700年頃 【イラク周辺】古バビロニア王国、第6代のハンムラビ王(紀元前1729年-紀元前1686年)が30年間にわたる戦争の後にメソポタミアを征服した。ハンムラビ法典(ハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は彼によって作られた。「ハンムラビ法典」は中東における法の原型。

・紀元前1800〜1600年 【イラク周辺】分数、代数、二次および三次方程式、およびピタゴラス数の概念が扱われている。円周率の値として、実際的な計算のためにはしばしば 3 が用いられていた[15]が、22/7 などのより精確な近似値も知られていた。バビロニア数学は、六十進法(60を底とする)の位取り記数法を記述していた。ここから、現在1分が60秒、1時間が60分、および円が360度(60×6)の用法が由来している。60には多くの約数があるという事実により、バビロニア数学の進歩が促進された。

・紀元前1680年頃 【エジプト】ヒッタイト人はクズルウルマック("赤い河"の意)周辺に王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。他国に青銅を輸出或いは輸入していた。

・紀元前1600年頃〜前221年 【中国】封建制度の採用。

・紀元前1600年頃 【中国】漢字 (殷王朝初期) が発明。

・紀元前1530年頃 【イラク周辺】古バビロニア王国が滅ぼされた。

・紀元前1400年頃 - 紀元前1050年頃 【ギリシャ】原カナン文字が利用(フェニキア文字の前身。アルファベットの原型)。

・紀元前1300年頃 【インド・パキスタン祝言】アーリア人が、バラモン教の一部としてヴァルナの枠組をつくった(カースト制度の前身)。

・紀元前1200年頃 【レバノン周辺】都市チュロスを中心として、海洋都市国家として栄えたフェニキア人によるイベリア半島の植民は、紀元前一二〇〇年頃から南部の港湾都市カディスを中心に始まり、マラガ、バレンシアへと広がった。

・紀元前1050年頃 ★【シリア】フェニキア人がフェニキア文字(アラム文字・ヘブライ文字・ギリシャ文字・アラビア文字など、ヨーロッパ・西アジアの多くの言語で用いられる起源)を開発した。海上交易を主流とした優れた商人で、貝紫とレバノンスギがフェニキア本土の特産品。

・紀元前1000年 - 前600年頃 ★【イラク】ユダ王国が建国。サウルが初代王。

※おそらくシリアの属国だった(副島隆彦説)。

・紀元前1004年 【イラク】ダビデは、十二部族の内、南部のユダ、ベニヤミンの二部族から推戴され、ユダの家の王になった。

紀元前1000年頃 中国東北部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先となった。

・紀元前 900年代 【北アフリカ】カルタゴ(Carthage、フェニキア語で「新しい都市」という意味)は、前九世紀に成立した北アフリカ(現チュニス)に位置するフェニキア人の都市国家。

・紀元前997年 【イラク】ダビデは、北部の十部族からイスラエルの王権も委ねられ、全イスラエルの王となった。

・紀元前967年 【イスラエル】統一イスラエル王国の第3代国王としてソロモン王(在位紀元前967年〜紀元前928年)が即位した。ソロモン王は、ダビデ王の繁栄をいっそう確かなものとし、タルシス船で世界貿易をおこない小国としては比類無い繁栄を享受することとなる。

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『科学』(岩波書店、2010年4月号)より

1.アフリカで形成された人類集団の一部が、5 - 6万年前までには東南アジアに渡来し、その地の後期更新世人類となった。

2 - 3.東南アジア後期更新世人類の一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった(典型性確率を使った頭蓋計測値の分析で、オーストラリア東南部出土の人骨化石であるキーロー[42]などに似た後期更新世人も、縄文時代人の祖先候補とすべきであることが指摘された)。


セネカフォールズ大会の結果

4.アジア大陸に進出した後期更新世人類は北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得た。日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいた。

5.更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも日本列島へ移住した可能性もある。

6.シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも約3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布。

7 - 8.中国東北部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先となった。

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・紀元前800年頃 【イラン】灌漑法誕生。(アッシリアが帝国をつくる頃)から乾燥地域で生活用水、農業用水を確保するために人工的な地下水路(カナート)をつくつて湧き水や山麓の雪解け水を引く方法を考え出した。

・紀元前800年中頃 【伊】ローマ帝国の起源は、イタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:ティベレ川)のほとりに形成した都市国家ローマである(王政ローマ)

・紀元前700年頃〜 【伊】ギリシア人(スパルタ人)はイベリア半島に、バルセロナ北方のエンポリオンや南部の海岸都市マイナケリアを植民地にした。

・紀元前539年 ★【イラン】ペルシャ帝国(アケメネス朝)がオリエント全域を支配。王朝を開いたのは第五代キュロス王(前五五九年に即位)。

・紀元前500年頃 【インド】ペルシャのダリウス王の西アジア支配と、ゾロアスター教の国教化と仏教徒迫害によって東漸した仏教の一部はインドに定着。

・紀元前492年 【イラン】第1次ギリシア・ペルシア戦争。

・紀元前449年 【イラン】第2次ギリシア・ペルシア戦争。

ギリシア人の都市同盟が、果敢に戦って、侵略してきたアケメネス朝のペルシア帝国(ダレイオス一世)に征服されなかった。この頃の世界世界帝国はイラン(副島隆彦説)。

・紀元前434年頃 【インド】釈迦が悟りをひらく。

ガヤー村のピッパラ (pippala) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、「今、証りを得られなければ生きてこの座をたたない」という固い決意で観想に入った。すると、釈迦の心を乱そうと悪魔たちが妨害に現れる。壮絶な戦闘が丸1日続いた末、釈迦はこれを退ける。そして、ついに12月8日の未明に大悟する。これを「成道」という。

仏陀は、バラモン教(戒律の厳しさと、ブラフマン=宇宙の根本原理)を否定し、仏教(=縁起)を掲げた。

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日之本研究ホームページより(出口王仁三郎研究サイト)

 釈迦という文字は元来『サカ族(Sakya-muni:釈迦牟尼)の聖者』と いう意味のようです。中央アジアの西方、カスピ海沿岸地方に住居して いた遊 牧民の事で、それがバクトリア滅亡の際に、アフガニスタン→ガンダーラ→インドへと移住していった様です。サカ族とは、サカ族=スメル族ではなく、スメル 族を祖とする支族の一部ではないかと思います。

そのサカ族がインドに入った時には、アーリア人種の支配下にあり、カースト制度といわれる階級制度が敷かれ、厳しい統制下にありました。カースト の頂点 がバラモン(祭司階級)で、アーリア人の階級です。

 この身分制度に挑んだのが、サカ族の皇太子シッタルタ(釈迦)であったという事の様です。

 アーリア人達は、先住民で圧倒的多数であった黒人或いは黄色人との混血を恐れ、2000階級にも及ぶカースト制度を敷いたと言われています。

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・〜紀元前400年 【パレスチナ(イスラエル)周辺】ヘブライ語聖書(ヘブライ語およびアラム語の文書群)が書かれる。律法と呼ばれる文書(モーセ五書)を核に、預言書(神からの啓示である預言の記述)および歴史書、諸書と呼ばれる詩や知恵文学を加えたものをさす。

※モーセ五書

律法は1.道徳律法、2.司法律法、3.儀式律法にわけられる。このうち、道徳律法は永続性があるが、儀式律法はイエス・キリストの十字架によって成就された

・紀元前400年〜 【ギリシャ】聖書のギリシア語訳が作られるようになった。有名なものにアレクサンドリアで編纂された七十人訳聖書がある。

・紀元前400年 - 紀元後200年 【インド】ジャイナの数学者は数学の唯一の目的のために研究を始めた。彼らは最初に超越数、集合論、対数、および添字、三次方程式、四次方程式、列と数列、順列と組合わせ、二乗と平方根導出、有限および無限冪乗について、基本法則を発展させた。

・紀元前333年 ★【ギリシャ】イッソスの戦い(ギリシャとペルシアの戦争)。マケドニアのアレキサンドル大王(二十歳前後)が、ペルシアに勝利。

・紀元前332年【ギリシャ】アレクサンダー大王はエジプト人に解放者として迎え入れファラオとして認められる。

・紀元前332年頃 - 63年 【パレスチナ】ユダヤ(イスラエル)の独立を維持して統治した初のユダヤ人王朝ハスモニア朝。マケドニアのアレクサンダー大王によってパレスティナが征服されると、大祭司たちはユダヤの長としてみとめられ、ユダヤ人によるパレスティナの自治が許された。

・紀元前331年 【ギリシャ】アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)

・紀元前301年 【パレスチナ】プトレマイオス一世がシリアのセレウコス朝からパレスティナの支配権を勝ち取ると、ユダヤ人に文化・宗教的自由を与え、エジプトにおいてユダヤ人達は勢力を拡大し、文化的に繁栄していく。この時からアレキサンドリアにおいてユダヤ人達の人口が増大し、バビロニアと並ぶユダヤ人の古代の代表的な集住地域となる。

また、最初に書かれた聖書とも言える「70人訳聖書」が書かれたのもこのプトレマイオス王朝下

・紀元前300年頃 - 200年頃 【ヨルダン】ナバテア文字の発明(アラビア文字、アラム文字の起源)。ペトラを中心とするアラブ系のナバタイ人が使用したアラム文字の一派、ナバテア文字を直接の起源。

・紀元前206年 - 220年 【中国】漢王朝による統治。

・紀元前198年 【パレスチナ】セレウコス朝によるパレスティナ支配が始まる。アンティオコス・エピファネスが徹底的で露骨なヘレニズム化政策を推進。ユダヤ人迫害、神殿の冒涜、城壁破壊などを繰り返し行なったが、猛烈にユダヤ人の反感を買ったのがユダヤの神殿の祭壇にゼウスの像を飾ったことであった。ユダヤの神をオリュンポスの神々と同一視したことによって、ユダヤ人の独立運動に火が点いた。

・紀元前167年【パレスチナ】ハスモン家の祭司マタティアスの反乱を機に、ユダヤ人達の歴史上初の大規模な暴動と独立運動が開始。「死海文書」に記録が残されている。

・0年前後 【ポーランド】スカンディナビア南部(スウェーデン南部)に住んでいたゲルマン人のゴート族が、バルト海をわたって、紀元前後ごろビスワ川河口付近(現ポーランド)に定住。

・26年頃 【パレスチナ】イエスキリストが30歳の頃ヨルダン川西側で洗礼を受ける。

・66年 - 70年 【パレスチナ】第一次ユダヤ戦争。ローマによるパレスチナ支配開始。

ズィーロットが蜂起し、エルサレムからローマ軍を放逐し、ローマを打ち破るという事件。しかしローマはウェスパシアヌス将軍と息子のティトゥスを派遣し、ヨセフスの率いる反乱者を潰走させます。このときゼロタイたちはマサダの砦に三年も立てこもるが、最終的に全員自殺の道を選び全滅。

エルサレムがローマ軍に包囲されたときにエルサレムを脱出して、海岸地帯の都市ヤブネに学院を設立して弟子たちの教育を始めたのがヒルレルの高弟、ヨハナン・ベン・ザッカイ。ヨハナンは伝承と雅歌を聖書に入れ、「五書、預言者、詩篇、知恵文学」を正典化し、今後聖書にはこれ以上は追加してはならないという布告を出した。タンナイムの始まり。

※紀元前10年 - 220年 タンナイムとは、タルムードの基礎となったミシュナ編纂にかかわった「教師」たちのこと。ヒルレルからユダ・ハ・ナシまで148名いた。イエスもこのヒルレルの弟子でヒルレル派=パリサイ派の正統の系譜に属する人

※ヨセフス「ユダヤ戦記」より

ユダヤ人はローマ帝国中に広がっていた。も多くの女性と子供がローマ帝国全土に奴隷として売られた。

・100年 - -200年 【パレスチナ】新約聖書がキリスト教徒たちによって書かれた。

・132年 - 135年 【パレスチナ】第二次ユダヤ戦争。

ユダヤ人はローマに敗北。死者58万人。

ハドリアヌス帝が、エルサレムにローマの殖民都市を建設し、トーラー=律法を公に教えることとユダヤの習慣を禁じたことで、最後の蜂起が起きた。生き残ったユダヤ人は奴隷とされ、エルサレムはキリスト教徒に開放され、ユダヤ人の立ち入りが死刑をもって禁じられた。

※エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という三つの一神教の聖地になつた。エルサレムにはユダヤ教徒地区、キリスト教徒地区、イスラーム教徒地区、アルメニア人地区が設けられて長い間共存が続いてきたが、第二次世界大戦後のイスラエル建国で、パレスチナではイスラエルとパレスチナ人の激しい抗争が続いている。ここでもヨーロッパ文明が介入してくると共存が崩れた

・138年 【パレスチナ】ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが即位し、ユダヤ教弾圧が緩和。パレスティナ北部ガリラヤ地方のウシャが新しく学問の中心となる。

※【イラン】このころからパレスティナよりもバビロンの機関が栄えるようになって、聖書研究の中心地の移行が徐々に始まる。

・200年代 【ルーマニア・ウクライナ周辺】ゲルマン人のゴート族は、三世紀にはドナウ川流域、黒海北岸周辺に南下(おそらく先住民略奪)。

・〜220年【中国】紙と印刷の発明

フランシス・ベーコン『ノヴム・オルガヌム』より

印刷術・火薬・羅針盤:これら3点は全世界のすべての表層と深層とを変えてしまった。印刷術は文学を、火薬は戦争を、羅針盤は航法を、である。大きな変化が起こってしまうと、それはかつていかなる帝国も、いかなる社会勢力も、いかなる星も発揮したことがない強い影響力を人間社会に及ぼしたことがわかった。

・226年 - 651年 ★【イラン】ササン朝設立。ユダヤ社会に寛容であったアルケサス朝からゾロアスター教を信奉するササン朝になり、ユダヤ教への宗教的弾圧が始まる。バビロニアの学問的勝利、バビロニア・タルムードはパレスティナ・タルムードの3倍の分量。

 中東の広大な砂漠地帯の交易を支配したササン朝は、隣接する中央アジアの「シルクロード(Silk Road)」の交易をも支配し、東西文明に大きな影響を与えた。東西交易を積極的に行うことで、広範囲の文化交流を推し進めた。

ゾロアスター教と仏教を融合することで生まれた「マニ教(Manichaeism)」は、西はアフリカ北部、フランス南部、東は中国にまで伝えられた。

ササン朝(二二六〜六五一)は衰退期に入ったローマ帝国、さらにビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉と頻繁に戦い、三〇〇年間の長きにわたって戦闘を繰り返した。

・267年 - 268年 【イタリア】ゲルマン人のゴート族はアテネで略奪。

・310年 - 337年 【イタリア】コンスタンティヌス大帝は、ソリドゥス金貨、すなわちノミスマにもとづく新貨幣制度をさだめて効果をあげ、それは11世紀半ばまで国際通貨として存続した。四〜六世紀までつづいた商業の繁栄は多くの古代都市に活気をもたらした。

・300年代 その他の部族も加わって、東ゴート王エルマナリック(のもとで、バルト海から黒海にいたる一大ゴート国家が建設された?

・313年 【イタリア】コンスタンティヌスはミラノでリキニウス帝と会談し、異母妹フラウィア・ユリア・コンスタンティアナをリキニウスに嫁がせて同盟を固めた。この会合において、2人の皇帝は連名でいわゆるミラノ勅令を発し、帝国内で全ての宗教(特にキリスト教)を寛容すると公認した。


なぜ我々はアラスカにドリルダウンする必要があり

・325年 【イタリア】第一回二カイア公会議。二カイア会議で、アリウス派(三位一体を否定し厳格な一神教を支持)が負け、アタナウシス派(三位一体支持。イエス自身が神。パウロの思想)が勝利。アタナウシスが新約聖書を27に編集した。この会議の決定にはコンスタンティヌス大帝の意向もあった。精霊が宿った人間、例えば聖職者や王までが神と同格になり、以降、キリスト教は恐怖により支配された。

・370年頃 エルマナリックの東ゴート族に対し、西進してきたフン族が侵入。フン族の支配下に。

・376年頃 - 395年頃 西ゴート族は、ローマ東方皇帝ウァレンスに庇護をもとめ、ドナウ川南のモエシアに移住することを許可され、農民になり、モエソゴート人とよばれるようになった。聖書をゴート語に翻訳し、アリウス派のキリスト教徒。

・395年 - 1453年 【ギリシャ】東ローマ帝国(ビザンティン帝国、正教徒の国家)創設。テオドシウス1世は長男のアルカディウスに帝国の東半分、次男のホノリウスに帝国の西半分を継がせた。

・409年【伊】 アラノス族、ヴァンダル族やスエビ族などのゲルマン人蛮族たちはにイベリア半島に侵入して略奪と殺戮を繰り返した。

・500年代 【伊】大陸法の再発見。

東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が編纂した市民法大全の「学説彙纂」(がくせついさん)の写本、いわゆる「フィレンツェ写本」がイタリアにおいて再発見。ボローニャ大学でローマ法の研究が始まり発展するとヨーロッパ全土から留学生が集まり、大陸諸国で大学が次々と設置されて研究されるようになった。

・598年 - 1905年 【中国】科挙制度(官僚登用試験)開始。

600年代後半 - 700年代初頭 律令制が成立

・610年頃 【サウジアラビア】ラマダーン月に、ムハンマドはマッカ郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受け、アラビア半島でイスラム教を始めた。

※ムハンマドの時代には商業が盛んになって欲望が肥大化し、社会的弱者がかえりみられなかった。そうした社会に違和感を持ち続けたムハンマドは、やがて「最後の審判)」が近いという終末観を強く抱くようになり、イスラーム教を創始した。

・618 - 907 【中国】唐帝国設立。ゾロアスター教は唐帝国に伝えられて「ケン教(けんきょう)」と呼ばれて流行し、ローマ帝国で異端とされたネストリウス派キリスト教もササン朝経由で伝えられ、「景教(けいきょう)」として信仰された。

唐代中期は、イスラーム勢力の勃興にともなう亡命者が多かったこともあり、唐帝国(六一八〜九〇七)の都・長安ではイラン風文化が大流行した。

※久保有政氏による仮説

日本の古神道は古代イスラエル人からのもの(天皇家)と、ユダ系の秦氏一族の景教(東方キリスト教)からのものの2つにより形成された

・628年 【ギリシャ】東ローマ帝国のヘラクレイオス帝の決定的な勝利。長くつづいたペルシアとの戦争に終止符をうち、ペルシアが占領していたシリア、パレスティナ、エジプトをとりかえした

・636年 第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブ率いるイスラム教団はビザンツ帝国〈本当はローマ帝国〉の反撃を打ち破り、シリア、パレスティナを奪いとる。

・642年 第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブ率いるイスラム教団はビザンツ帝国はエジプトを奪い取った。さらにササン朝ペルシアにも壊滅的打撃を与えた。

・650年代はじめ ★ムハンマドが四〇歳の時に天使ガブリエルの啓示を受けて以来、23年間語り続けた神の言葉を集めた『コーラン』(Qur'an)がまとめられた。(ゾロアスター教はイスラム教に吸収)

・661年 - 750年 【シリア】ウマイヤ朝の成立。アリー暗殺後、シリアに本拠を構えたウマイヤ家のムアーウィアがカリフを称した。ムアーウィアは、ウマイヤ家でカリフをたらいまわしにする。ここにイスラーム帝国は王朝化し、シリアの大都市ダマスクスを首都とする「ウマイヤ朝」が始まる

・700年代 - 900年代 【西ヨーロッパ】ヴァイキングと呼ばれたノルマン人たちが独特の丈夫な船を駆って西ヨーロッパの海を支配していた

スウェーデンとバグダードが交易で結びついていた。バルト海の最深部で生活するスウェーデン系のヴァイキングは、イスラーム世界の豊富な物資と銀貨に引きつけられてイスラーム商人と盛んに交易をはじめた。イスラーム経済圏と交流したヴァイキングはスウェーデン人であり、かつてバルト海から上がった琥珀(こはく)をメソポタミアに送ったルートを利用して、アラブ人が求める毛皮や蜂蜜、スラブ人奴隷をバグダードに送っていた。

・★711年 - 1492年 【伊】レコンキスタ(国土回復運動)。

711年からイベリア半島がイスラーム教徒に征服され始めた。(イスラーム教徒は、ゲルマン人が建設した最初の国家西ゴート王国を1・2年侵略・征服した他に、同時代のヨーロッパよりはるかに優れた文化と繁栄をもたらした。)、

1492年からイベリア半島からイスラーム教国家を追い出した(キリスト教徒は再征服・国土回復をした地に、都市の破壊と耕地の荒廃、そして狂暴の王国をもたらした)。

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※会田雄次『世界の歴史7・近代への序曲』中央公論社

「スペインのイダルゴ(騎士)たちは、何百年ものあいだ殺戮(さつりく)のためにのみ生きるよう訓練されてきた、平和な勤労にはまったく縁遠い連中である。奸計、謀略、戦闘技術、武術のかたまりで、当時これほど恐ろしい人間は、世界中ではヨーロッパ、なかでもこのスペイン、ポルトガル以外には存在しなかったであろう。スペイン、ポルトガルの両国がまたたくまに世界を席巻(せっけん)した理由はこういうところにあったと思われる」

「アラビア人の富を吸いきって、もはや掠奪するものがなくなったイダルゴたちのすさまじい精力と貪婪(どんらん)な目は、自分の欲望を満たす新しい黄金の世界を懸命にさがし求めていたのである。冒険と戦闘と掠奪との夢を追って」

「大航海の時代、スペイン人はアメリカに、掠奪と搾取と人殺し以外の何ものをももたらさなかった。スペイン人が一切を掠奪し終わると、こんどは搾取がはじまった。植民地は全部王領になったが、スペイン人は私腹もぞんぶんにこやした。豊富な金銀鉱はとくに目をつけられた。悲惨な労働がはじまった。反抗すれば撲殺(ぼくさつ)され火あぶりにされた。鉱山では酷使や出水や落盤のため無数の人が死んだ。鉱山の入口は死者と、それを群がり食う禿鷹(はげたか)でうずまり、反乱をおこした村や町でほ住民が皆殺しにされた。こうしてインディオの人口は激減し、ジャマイカやキューバなどでは、一六世紀の中ごろまでに全住民が死に絶えたのである。こうして労働者が足らなくなると、アフリカからニグロが移入された� ��

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・750年 - 1258年【シリア】アッバース革命勃発。

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※鳥生守氏より

 シーア派の反体制運動を利用して新王朝を建てたアッバース家であったが、安定政権を樹立するために多数派を味方につけることが必要と判断して、なんとシーア派を弾圧し、スンナ派に寝返った。他方でアッバース朝は、アラブ人の特権を取り除く必要にかられ、アラブ人に対する年金の授与や免税特権の廃止に踏み切った。『コーラン』に基づくイスラーム教徒の平等にも努め、イラン人など非アラブ人の有力者を役人として積極的に取り込んだ。弱小部族による支配の補強に努めたのである。結果的に、征服王朝としてのアラブ帝国(ウマイヤ朝)が、イスラーム原理により諸民族が平等に統合されるイスラーム帝国に姿を変えた。

アッバース朝はイラクを拠点にしてササン朝の諸システムをたくみに取り入れ、イラン人を同盟者として利用することで一時的に安定した体制を築き上げた。こうしてアッバース朝の時代には、かつての軍事都市が経済都市に姿を変え、帝国の諸都市の市場を結ぶ商業ネットワークは急成長をとげ、ユーラシア規模の大ネットワークに接続するようになった

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・786年 - 789年【シリア】アッバース朝の最盛期の第五代カリフ、ハールーン・アッラシードの時代のバグダードは『アラビアン・ナイト』の舞台であるが、「世界に肩を並べるもののない都市」として成長をとげ、市内には六万のモスク、三万近くのハンマーム(公衆浴場)があったとされる。

・799年 - 809年 【ウクライナ周辺】カザール王国はトルコ系遊牧民を起源に持つ人々が建てた国であるといわれている。カザール王国は、当時キリスト教国のビザンチンとイスラム教国の間に挟まれていたため、苦肉の策として、オバデア王の国政改革で、双方の信仰に通じるユダヤ教を国教に改宗してしまった。これによってカザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。

・800年代 ★【中国】火薬が発明される。火薬は13世紀にアラブ世界に広がり、その後ヨーロッパへ伝わった

・862年 【露】最初のロシアの揺籠となった「キエフ・ロシア国(キエフ・ルーシ)」が誕生。

ルス人リューリク大公の配下が、それまでカザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合。(キエフという名前は、もともとはカザールの将軍クイの砦からついた名前)。このキエフはルス人の町として発展し、「ロシアの町の母」となり、この町の名をとった公国となった。

・900年代 【スペイン】アブドゥル・ラフマーン三世はカリフとして正式にイスラム王国の王となった。彼は学問芸術を保護したため、コルドバはバビロンが衰退した後のユダヤ人の学問の中心となる。

ここからスペインユダヤ人達は宮廷の高官となっていき、学問文芸の黄金時代を謳歌していくことになる。これがセファラディム。ユダヤ人達は(おそらくはエジプトなどから移住した人達であろう)、ギリシア語の著作を多数アラビア語に翻訳し、アラビアの数学、天文学や文学をヨーロッパへ紹介して、アラブとキリスト教徒との橋渡し役となった

・980年頃 【露】キエフ・ロシアは、ウラジーミルがに大公になると、盛んに軍事遠征をおこない、キエフ・ロシアの領土を大いに拡大した。

・988年 【露】カザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言した。しかし、ウラジーミル大公は先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を受け入れロシアの国教にした。

・1096年 ★【ギリシャ】十字軍の遠征。セルジューク朝の圧迫に苦しんだ東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスの依頼により、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世がキリスト教徒に対し、イスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ、参加者には免償(罪の償いの免除)が与えられると宣言した。この呼びかけにこたえた騎士たちは途上、イスラム教徒支配下の都市を攻略し虐殺、レイプ、略奪を行いながらエルサレムを目指した。

・1041年 - 1048年 【中国】北宋の畢昇が世界初の活字を発明(陶器の活字)。

・1066年 【英国】ノルマンコンクエスト。フランス配下だったノルマン人ウィリアム征服王(ヴァイキング)がサクソン人の領主・貴族を追放して、取って変わった。ウィリアム征服王による封建制の確立、英国王室の起源。(英米法の起源)

・〜1086年 【中国】羅針盤の発明

1086年 院政開始。宋との貿易を始めるために、皇位を譲りさっさと政治ができるようにした。中国銭を使う時代(中世)の幕開け。『中国化する日本』(与那覇潤)より

・1100年代 【スペイン】イスラム王国のもとでユダヤ人社会は経済的に安定し、学問の活動が活発になるが、12世紀末のアルモハデス王国になるとユダヤ教の迫害が起こり、カスティリアに難民が流れ込んだ。

・1154年 【英国】コモンロー(慣習法)の発展。ヘンリー2世が神判を禁止して陪審制を復活させ、各地方に国王直属の多数の裁判官を派遣する巡回裁判制度を創設したことがコモン・ローの発達を促し、これが英国法に固有の、そして、後に英米法体系の国々に引き継がれることになる、特徴を形成していった。

・1206年 【モンゴル】チンギスハンがモンゴルを統一。銀を通貨として採用。

・1219年-1223年 【ヨーロッパ】テンプル騎士団総長ペドロ・デ・モンタギューが、ペルシアのモンゴル人を訪れて羅針盤をヨーロッパに持ち帰った


"人々は18世紀の偉大な家で何をしたの?"

・1200年代 【ハンガリー】テカというユダヤ人(カザール・ユダヤ人)が国王アンドルー二世の王室財務官を担当。

・1273年 【独】ハプスブルク家の始祖。プスブルク伯のルドルフがドイツ王(神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。※ハプスブルク家はスイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。

・1280年 【中国】 大砲が発明される。

・1290年 【英国】英国でユダヤ人が完全追放された。

・1299年 【トルコ】オスマン帝国設立。始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についた。

・1390年 【フランス】フランスでユダヤ人が完全追放された。ドイツでは追放は行われず、都市の旧城郭の外側に作られたゲットー(ghetto)という区画に押し込められた。

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アーサー・ケストラー『第十三支族―カザール帝国とその遺産』より

 「彼らはイギリスでは「王室御用達高利貸し」という身分に遇せられた。その主な仕事というのは、政治経済の投機事業に資金を貸しつけることであった。この高利貸し達は、高利によって莫大な富を築いた後は、王室の利益のためにいろいろな形で、その富を吐き出させられた。彼らは完全な王室の庇護の下に置かれ、その裕福な生活はかなり長い間続いた。

 その豪華な住居や衣服、強大な発言力などに隠されて、彼らの置かれている危険極まりない状況には誰も気付かなかった。しかしその間にも、各階層に渡る負債者達の憤りは、少しずつ蓄積されていたのであった。

 やがて不満のつぶやきは極限に達し、まず一一八九〜九〇年の暴動が起き、一二九〇年には、とうとうユダヤ人は国外追放とされてしまった。

 この二〇〇年余りの間のイギリス・ユダヤ人の隆盛のごとき登場、そして急激な衰亡は、一〇〜一五世紀の全西ヨーロッパのユダヤ人の運命を鮮やかに描き出している。(二四一〜二四二ページ、ケストラーによる歴史学者バロンの引用)」

ユダヤ人は、その「数の少なさとは不釣り合いに大きな、ユダヤ人の社会的経済的影響力(二四二ページ)」を持っていたのである。

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・1300年代 - 1500年代 【伊】ルネサンスが起る。イタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動。

※メディチ家が、ローマカトリック教会(ローマ法王)の「支配の思想」と闘って、ルネサンスなるものを始めた(副島隆彦説)

・1348年 - 1300年代末 【北ヨーロッパ】ペストが流行。アルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の三分の一から三分の二、約2000万から3000万人が死亡したと推定されている。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

・1300年代 火薬は、火矢(ひや、ロケット)の推進用および砲弾の発射用として普及し、旧来の戦術を一変させた。

・1300年代後半 【ベルギー・オランダ・ルクセンブルク】ネーデルラント(スペイン・ハプスブルク家の一角)は、フランドルを中心に商業が発展し、西ヨーロッパの先進地域。地租や物品税を担保試算とする年金型債権を販売。ブルゴーニュ公国領としてこの地域は政治的に統合され、15世紀後半にはハプスブルク家が継承した。

この時期に現在のオランダの王室オラニエ=アッサウ家が生まれた。ナッサウ家のうちナッサウ=ディレンブルク伯オットー1世 の家系は、14世紀から15世紀にかけてネーデルラントに勢力を伸ばし、随一の名門となっていた。

※ネーデルラントは地中海貿易の北イタリア諸都市と並び、当時の2大貿易港、金融街だった。ハプスブルク帝国に蓄積した富をローマ教皇庁やスペインに「貸付」たが、結局、国家や王室への融資はほとんど焦げ付き、没落を招いた。

・1405-33年 【中国】鄭和の遠征。中国の南海への膨張政策として"明"の永楽帝の時代のに7回にわたり南海遠征が行われた。第1次は62隻からなる艦隊に1隻の乗組員は約450人、総計2万7千人が乗り込んだ。この大航海はヨーロッパの大航海時代に70年ほど先んじての大航海であり、非常に高く評価される。

鄭和の遠征をきっかけに中国人の南方への進出が本格的に始まり、ジャワ島沿岸に中国からの商人が移住するようになった。15世紀末に勢力を得たジャワの交易都市のドゥマック王国はムスリム系中国人が支配する港市であった。

※鄭和とは

。雲南省出身のイスラム教徒。仏教などの信仰への理解もあった。後世に三保太監・三宝太監と呼ばれ、司馬遷・蔡倫と並んで宦官の英雄として語られる事になる。また鄭和が寄港した各地の港でも鄭和の評判は非常に高く、ジャワ・スマトラ・タイには三宝廟が建立されて祀られている。

・1405年 【インドネシア】スマランは鄭和の東南アジアにおける基地の一つになった。

・1400年代 -1500年代  【ヨーロッパ】貴族が攻撃性を自己規制できるようになる

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※柄谷行人公式ウェヴサイト 『超自我と文化=文明化の問題』より

エリアスは、ナチズムが席巻した一九三〇年代に、西ヨーロッパにおける「文明化の過程」を、礼儀作法をふくむさまざまな角度から詳細に考察した(『文明化の過程』)。たとえば、一五・六世紀ぐらいまで、人々は粗暴ですぐに喧嘩し殺しあうことが多かったが、次第に、攻撃的な振る舞いが無くなっていった、と彼はいう。それは、暴力を独占した絶対主義王権国家によって禁じられたからだけでない。攻撃性を自己抑制することが支配階級(貴族)のノーブルな特質であるとみなされたからである。文明化とは攻撃性をたんに規制するだけでなく、それを自己規制できるということに存するのである。

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・1410年 【伊】メディチ銀行はローマ教皇庁会計院の財務管理者となり教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。

・1434年 - 1737年 【伊】メディチ家のコジモは政敵によって一時追放されるが、1434年にフィレンツェに帰還し、政府の実権を握る。後年、メディチ家はローマ教皇に貸し付けた金が踏み倒されて没落する。

・1445年頃 【ドイツ】グーテンベルクがヨーロッパ初の活版印刷術発明。

1467年 - 1477年★ 応仁の乱。鎌倉幕府と平家(後白河法王)の戦い。

鎌倉幕府=貴族体制=封建体制=農業中心の荘園体制。これは遣唐使が輸入した唐の体制に近い ⇔ 平家=自由主義的。これは宋の体制に近い。鎌倉幕府の勝利以降、明治維新まで封建体制が続く。『中国化する日本』(与那覇潤)より

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※戦国時代の原因 日本中世史家の藤木久志氏の説(立教大学名誉教授)

15世紀に入って天候不順が続き気温が低下した結果、全国各地で飢饉が頻発し、食い詰めた農民が流民となって京都に大量に流入してきたことを戦乱時代のきっかけと指摘している。

 鎌倉・室町時代前半までは、3〜5年に1回程度発生した飢饉は、応仁の乱前後以降は、2年に1回の頻度で発生したとしている。応仁の乱の直前には、「京都内の餓死者8万人以上」とも言われている「寛正の大飢饉」が発生している。これらの各地からの飢饉流民は、やがて雑兵・足軽となって各勢力に組み込まれ、次第に不穏な情勢が醸し出されたとしている。

 京都だけでなく、全国の領主は、食糧確保を巡って近隣と小競り合いを繰り返すようになり、これが京都内の私闘開始に連動して、次第に全面的な騒乱状態に至ったようである。

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・1492年 【スペイン】ユダヤ人(セファラディ系)はスペインを追放。後に、ポルトガル経由でオランダに渡った。

・同年 【イタリア】コロンブスがインディアス(アメリカ大陸地域)に到達。

・1498年 【ポルトガル】バスコ・ダ・ガマ(一四六九〜一五二四)が喜望峰を回ってインドに到達。

1500年代 ポルトガル船が日本に来航し、40年代に鉄砲・キリスト教が伝来。その後も南蛮人の手によりアリストテレス流の自然学やプトレマイオス流の医術が伝わる。

・同年 【ドイツ】フランクフルト・アム・マイン(マイン河畔にあるフランクフルト)評議会の条例「ユーデン・シュタッティカイト(容認できるユダヤ人の居住法)」が施行され、ゲットーの時代が始まる。しかし、ドイツではユダヤ人が一定の規制の下に定住できるという事実には変わりなく、16世紀以降ゲットーの人口は急増していった。

そして皮肉なことに、このゲットーがユダヤ人の現代にいたる経済的な地位の基盤を作ることになる。

このユダヤ人達が金融行を営むと同時に、15世紀末からの大航海時代と重商主義の流れに乗ってヨーロッパからオスマントルコに散らばっていたユダヤネットワークを活かして広域商取引に乗り出した(国際金融システムの始まり)

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・1516年 【イタリア】ベネチアで初めてゲットーが導入

・1517年 【ドイツ】宗教改革が始まる。

マルティン・ルターはルターはパウロ書簡のうち、ローマへの手紙を最重要と位置づけた。ローマ教会に抗議して95ヶ条の論題を打ちつけ、この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。宗教改革は各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯の支持を得た。

※ルターの贖宥状批判のベース

信仰のみによる義認は、ルター神学の中軸をなす教理。ルターは16世紀初頭当時のカトリック教会の腐敗を、行為義認(善行によって神は人を義とする)説に由来するものと考え、これに対して、人は善行ではなく信仰によってのみ義とされるとパウロ書簡によって説いた。

・1526年 - 1858年 【インド】ムガル帝国の成立。インド南部を除くインド亜大陸を支配したイスラム王朝。

・1531年 【ベルギー】アントウェルペン(スペイン領のネーデルラント)に史上初の「商品取引所」が設立。

・1579年 - 1794年 【ベルギー、オランダ、ルクセンブルク】ユトレヒト同盟が基礎となり、ネーデルラント連邦共和国が独立。

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反=ロスチャイルド同盟サイトより

1582年 日本に3年ほど滞在したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、フィリッピン総督のフランシスコ・デ・サンデに下記のような手紙を出した。

「私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができます。なぜなら、国民は非常に高貴かつ有能にして、理性によく従うからです。もっとも、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きでしょう。なぜなら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛かつ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからです。しかしながら、支那において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるでしょう。それゆえ日本の地を極めて重視する必要があります。」

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1590年 住友の銅事業は、泉屋と称して、京都で銅吹きと銅細工を開始。

・1593年 【オランダ】ユダヤ人初上陸。初めはカトリックと誤解されて、襲撃されたが、マラーノであるということを説明すると定住を認められ、ユダヤ人としての生活が可能となった。裕福なセファラディム達はスペインで禁じられていた事業を展開し、資産と人脈を生かして活躍し始める。こうして、アムステルダムはオランダのエルサレムといわれるようになり、多数のユダヤ人達がスペインから移住するようになった。この後東インド会社と西インド会社がスペインの通商を打破して、ポルトガルのアジア・アメリカ通商ルートをそのまま引き継いでオランダが世界帝国になっていく。

・1600年代 宮廷ユダヤ人は17世紀、三十年戦争で活躍し、彼らの宮廷での役どころは、戦費と軍需物資の調達、国家財政の顧問と資金提供、そして貨幣の鋳造であった。


・1600年頃 【英国】イギリス東インド会社設立(ジャーディン・マセソン社の起源)。もっとも、初期の貿易会社は、航海の都度出資を募り、航海が終わる度に配当・清算を行い、終了する事業だった。

・1602年 - 1799年 【オランダ】香辛料貿易を目的のためオランダ東インド会社設立。継続的な資本を持った世界初の株式会社。

・1606年 【英国】エドワード・コーク卿は、王権神授説によって「国王主権」を主張する時の国王ジェームズ1世に対し、ブラクトンの法諺を引用した上で、「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と諫めたとされる。(法の支配の発展)

・1613年 - 1917年 【ロシア】ロマノフ王朝の成立。ミハイル・ロマノフがリューリク家のイヴァン4世の後継者として皇帝(ツァーリ)となる。

・1618年 【ドイツ】30年戦争開始

・1619年 【インドネシア】東インド会社によるバタヴィア占領。オランダ東インド会社東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンがバンテン王国からバタヴィアを占領、堅固な要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした。

・1631年 住友家(世界最古の財閥の一つ住友財閥の起源)の銅精錬業銅が大阪で栄えた(銅は当時一大輸出品)

・1640年 【ポルトガル】独立する。

・1648年 ★【ドイツ】ウェストファリア条約締結(近代における国際法の元祖)。

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※ウェストファリア条約とは wikipediaから抜粋

三十年戦争(カトリックとプロテスタントによる宗教戦争)はカトリック派諸国、とりわけハプスブルク家の敗北によって終わった。

スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、独立を承認された(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)。

この条約の成立によって、教皇・皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国の存在を前提として勢力均衡の中で国益をめぐり合従連衡を繰り返す国際秩序が形成された。この条約によって規定された国際秩序はヴェストファーレン体制とも称される。

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・1657年 【英国】イギリス東インド会社は、オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった。

・同年 【英国】公の宗教活動を禁ずるという一定の条件拘束下でユダヤ人の入国が認められた(600年ぶり)。

1662年 住友家は鉱業と金融業を握るコンツェルンを確立。

・同年 【英国】ロンドン王立協会が発足。国王ジェームズ2世の勅許を得て、自然を研究する新しい学問を愛好する人々の団体としてロンドン王立協会が設立された。初期の会員には、気体の法則のボイルや、バネの法則のフックなどがいた。

※ロンドン王立協会はフランシス・ベーコンが,『ニュー・アトランティス』で述べた,科学者が集まって研究する「サロモンの家」の理念を実現したものである。

・1665年 【英国】ニュートン(大百姓の家の出)が万有引力、二項定理を発見、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。

・1672年 【英国】ニュートン(大百姓の家の出)がロンドン王立協会会員に。

※山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房)より

16世紀文化革命の過程で職人たちの実践から自然発生的に生れていた研究の協働的推進と科学の累積的発展という観念を、ベーコンは国家の主導で推進するように主張し、その実践を高等教育を受け研究に専念するエリート科学者に託したのである。

・1673年 三井高利(三井家)が伊勢から江戸に進出し「越後屋呉服店」(三越)を開いた。京都の室町通薬師町に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。

・1687年 【伊】マテオ・リッチは、儒教の教義を中国から持ち帰り本部に報告し、イントルチェッタ神父は儒教の日常と業績をにラテン語で出版した。

・1687年 【英国】ニュートンは「プリンケピア」を著した。

・1688年 - 1689年 ★【英】名誉革命(クーデター)。イギリスとオランダが同君連合に。ステュアート朝のイングランド王ジェームズ2世(親仏派)が王位から追放されフランスに亡命、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王位に即位したクーデター事件。これにより「権利の章典」が発布された。

その結果、オランダの先進的な金融システムや財政制度(私有財産権等)が、オレンジ公ウィリアム王のブレーンにより、そっくりイギリスへ移植された。

※権利の章典

議会の同意を経ない法律の適用免除・執行停止の禁止。

議会の同意なき課税、平時の常備軍の禁止。

議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権の保障。

議会を召集すること。

国民の請願権、議会における議員の免責特権、人身の自由に関する諸規定。

王位継承者からカトリック教徒を排除すること

・1694年 【英国】イングランド銀行の設立

1691年 - 1973 住友家が愛媛県の別子銅山を開発する(以降、住友財閥の大躍進が始まる)。

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『中国化する日本』(与那覇潤)より要約

江戸時代

・農村の次男三男は江戸に追い出される。江戸で次男三男の死亡率は、5人中3人で、太平洋戦争の陸軍以上。

イエの後継者を一人にしたことで、人口の増加がストップし、マルサスの罠を抜けられた(食料不足回避)。

・江戸時代は公共事業推進した。例えば、城は、欧州と違い、王のものではなく国が所有。

・勤勉革命論(速水融氏)。食糧増大や経済発展は労働量の増加によってもたらされた。

・江戸時代後期、農民からの税は増やせず、支出が増えたため、武士の不満が高まる。

士農工商の身分制度は、商にも不満。なぜか。権威と権限が一致しなかったから。彼らの不満が爆発して、明治維新に繋がる。

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・1701年1月18日 - 1918年 【ドイツ】プロイセン王国建国。ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいて戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。

・1703年 - 1727年 【英国】ニュートンがロンドン王立協会の会長担当

・1714年 【英国】ニュートンらロンドン王立協会が、2万ポンドの賞金をかてて経度測定法を公募した。正確な経度を測定するには、正確な時計が必要だったが、当時まだ誰も遠洋航海に仕えるような時計を作ることはできなかったが、1760年にヨークシャーの時計職人ジョン=ハリスンがクロノメーターと名付けたゼンマイ時計を考案した。

・1720年 【インドネシア】バタビアの中国人は10万人になり、オランダ人と共生していた。

・1730年9月24日 大坂堂島に堂島米会所設立(世界最古の先物取引)。

・1740年10月 【インドネシア】バタビアで中国人虐殺事件が発生した。殺された中国人は3千人〜1万人といわれる。

・1742年 【英国】英国の科学者でありエンジニアの、ベンジャミン・ロビンス(Benjamin Robins)の考案により、らせん状に回転するライフリングが発明される。

・1760年代 - 1830年代 【英国】持続的な経済成長(現代イギリスの通説、産業革命(農業革命)はなかった)。

※産業革命には大きな資本はそもそも必要なく、意欲の旺盛な起業家による自己資金に賄われた。過去に蓄積された富は主に「国家」に投資され、対外戦争の遂行、産業基盤整備(道路網、水路、港湾)へ向けられた。

※『中国化する日本』より なぜ西洋でのみ産業革命が成功したのか?

現在の学問の主流の見解

1価格革命(銀の大量流入によるインフレ)

2排他的な所有権の概念

3契約慣行と法律の支配

4株式会社の発明

※ノーフォーク農法の発明

18世紀にイングランド東部ノーフォーク州で始まった新農法。大麦→クローバー→小麦→かぶの順に4年周期で行う四輪作法

・1773年 30歳のロスチャイルドがフランクフルト会議を主宰した。その目的は、もし彼らが自分たちの資金をプールすることに同意するなら、世界革命運動に資金を供給してコントロールし、全世界の富、天然資源および労働力の究極的支配をかち得るという実践教範に従って、その資金を使用するよう彼らを説得すること。 ※ソース不明のため偽史の可能性あり 

・1775年 【英国】クックの第2回航海でハリソンのクロノメーターが正確であることが認められ、洋上で正確な時刻を計ることができ、経度の測定も正確にできるようになった。

・1776年 【独】インゴシュタット大学法学部長のアダム・ヴァイスハウプト教授が反イエズス会の思想を掲げ、秘密結社イルミナティを創設。初期の会員はヴァイスハウプトの友人や弟子が中心だったが、まもなく「自由と平等」「反キリスト教」「反王制」といった方向へと思想を先鋭化。知識人や下級貴族らの間に急速に浸透するようになる。

・同年 【英】ワットが蒸気機関車発明(石炭の利用の促進)。

・1782年7月16日 【ドイツ】イルミナティとフリーメーソンの間で会談が行われ、協議の結果、イルミナティは正式にフリーメーソンの中のひとつの派とすることになった。

・1783年 イルミナティ派の一部が、時の政府と教会の崩壊を狙ってテロによる軍事行動を起こすクーデター計画があるという内部告発を受けて、バヴァリア政府が調査に乗り出した。

・1783年 【米国】アメリカ独立戦争終戦。

新政府は強い財産権と固定されない階級構造を造った。特許を発行するという考え方が、アメリカ合衆国憲法第1条第8節に取り込まれて、議会が「一定期間、著者と発明者にその著作や発見について排他的権利を与えることで、科学と有益な芸術の発展を促進する」ことを承認。

・同年、アダムスミスが『国富論』出版。

・1785年3月2日 【ドイツ】イルミナティは、政府に動かぬ証拠を掴まれて活動停止処分なり、ヴァイスハオプトは国外追放。

・1789年7月14日 ★【仏】フランス革命。バスティーユ襲撃に始まる1799年11月9日 ナポレオン・ボナパルトによるブリュメール18日のクーデターで終焉。

※反=ロスチャイルド革命のサイトより

イルミナティによって乗っ取られたフリーメーソンが主体となって起こされた革命。フランス革命後に独裁化し、恐怖政治をおこなったジャコバン党の実体が、イルミナティ。当時、ユダヤ人迫害の最高責任者が、教皇であり、国王だった。新たに権力を手にしたのは「知力」と「金力」を持つ者たち。イルミナティは、フランスを革命に追い込むため、莫大な資本を海外に流出させ、国家財政を破綻に追い込み、無数の失業者を出した上で、国の銀行をロスチャイルド系の銀行に合併させた。

・1789年 【仏】フランス人権宣言。

人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなるフランス革命の基本原則を記した

また、この所有権を「神聖不可侵」として所有権の絶対性(所有権絶対の原則)を標榜し、私有財産制の基礎を確立したことが、産業革命の主因の一つと考える歴史学の説がある。



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